2025年7月23日の糸井さん
『気が利いてる人の、かっこよさ。』 糸井重里
「気が利いてる」人っていますよね。
そういう人に、ぼくは憧れているかもしれない。
なんかさぁ、かっこいいじゃないですか。
ま、お店で出てくる「冷たいおしぼり」みたいな?
いや、「冷たいおしぼり」のなかにもいろいろあるし。
すっごく気が利いてる感じの「冷たいおしぼり」と、そうでもない「冷たいおしぼり」があると思いますね。
「気が利いてる」というのはもっとむつかしいことでさ。
いかにも気が利いてると思われたい「気が利いてる」と、気が利いてると気づかれなくてもいい「気が利いてる」がありますよね。
気づかれなくても気にしないほうの「気が利いてる」が、やっぱりいいなと思うんですよね。
けっこうややこしいことを言ってますか。
いまの時代って、基本的に「ギブ・アンド・テイク」というか、等価交換とか契約の考え方で動いているじゃないですか。
「わたしは、いまあなたに、気が利いてるを差し上げましたよね」なんて感じで、価値を確かにあげましたということを言いたがる。
別に、それはそれでいいとも思うんです。
あげたものはあげた、だからお金払ってねという理屈。
だけど、それだけで世の中はできてるわけじゃない。
テイクを期待しないギブがあると思うのです。
見返りを期待するとか、わかってもらいたいとかを、いったん忘れてしまって、ただ、やりたいからやること。
「気が利いてる」人のかっこよさも、そういうあたりにあるんじゃないかなぁ。
「気が利いてる人」の「気」は黙って相手に向かってる。
してあげたいからしているかっこよさ。
もしかしたら、それはかつての江戸の町の人たちの「粋」の価値観なんかにも近いのかもしれません。
あと、ついでに「もしかしてだけど」と思いだすのは、「片思い」というものにも似てるんだよなぁ。
「片思い」というのは、ある意味、すごくかっこいい。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そういえば粋も、粋であろうとしすぎると野暮になるとか。